所長の小部屋~バックナンバー~

今までに所長が呟いてみた当事務所の思い出です。
是非ご覧になってください♪

一粒万倍

 お盆が過ぎても暑さは一向に和らぎません。あちこちで熱中症の報道がされる中、炎天下の稲は青々と茂りいきいきと成長しています。それもそのはず稲は東南アジアが原産とか。

 早起きは三文の徳ではないが、朝は早く起きることにしています。東の空が白白と明るくなる頃には畦を歩いています。稲の生育状況の把握や水の管理のためです。

「おはよう」と朝露で濡れた稲に声を掛けます。すると「おはよう」と返事が返って来るかのようにそよ風に揺れます。

 二ヶ月程前にはわずか3~4本であった苗も、今では30株近くに分けつし、一段と大きくたくましくなりました。今年の農業所得に思いを馳せながら一粒万倍の願いを込めて、今日もてえもり(田の管理)をしています。

実るほど頭は下がる

 秋も深まり稲穂が色づいてきました。農家ではこれからが忙しくなります。小生も米づくりの一人、今年は例年になく豊作で有難く思います。

 稲の株数も多く、穂は重く重く垂れ下がっています。

実るほど頭の下がる稲穂かな、という言葉を耳にしますが、まさにそのとおりです。やがて我が家の食卓にも新米がお目見えすることでしょう。

 ところで商売繁盛の心得の一つに「頭を下げる」ことがあるそうです。人様はもちろん自分自身にも頭を下げることが大切だとか。高慢を戒め謙虚の大切さを教えて頂いているのかも知れません。

 稲穂は頭を下げようと思って下げているのではなく、自然に下がっています。人間とて同じこと、欲得で頭を下げるのではなく、目の前の人を大切に思う素直な心さえあれば自ずから低くなるような気がします。

 苗の頃から毎日毎日心を込めて大切に育ててきました。収穫間近かのその稲穂を見ながら、かくありたいと思うこの頃です。

喜んで頂く心


 国の奉職を終え、郷里での生活も10年余りになります。子供の頃の催事はことのほか懐かしいものがあります。しかし、時代とともに少しずつなくなっていくことに一抹の寂しさを覚えます。

 そのような中、氏神様を中心とした農耕信仰は未だ続いています。

田植え後に豊作祈願の「願込祭」、収穫前には豊かな実りを頂いたお礼にと「願成就祭」が催行されます。そして、徐々に寒さが忍び寄り、麦作りを終える頃には「氏神様のお祭り」が待っています。

 神様はお酒と賑やかなことが大好きだとか。厳かな神事の後は神楽です。

小太刀舞から大蛇退治まで8時間余りに渡って神楽が繰り広げられます。その間、みかんやもちが撒かれ、子供達は鬼に飛び掛ったり、鬼から追われたりと楽しい時間が流れるのです。

 遠い私達の祖先は、人間は自分の力だけで生きているのではない、大自然界に守られて生きていることを知ったのでしょうか、社を建てて神様を崇敬し、喜んでもらうことを心がけてきました。自分よりもまず、大切な物に喜んでもらうことが一番、その結果として自分の喜びがあると信じてきたのかも知れません。

 大切な人様の仕事をさせて頂いています。何よりも、お客様に喜んで頂く仕事を心掛けることの大切さを改めて教えられたような気がしています。

そのお祭りは毎年、12月19~20日に催されます。

東日本大震災によせて

東日本大震災により被災された皆さま及びその影響を受けられた皆さまに心よりお見舞い申し上げます。一日も早いご復興を心よりお祈り申し上げます。


 ことのほか寒かった今年の冬。厳しい寒さの中をじっと耐えてきた諸々の命。やがて春になり、暖かい光と共に全てが元気になりました。寒梅、桜、菜の花等々百花繚乱。今はつつじも咲き始めました。新緑と心地よい薫風の初夏です。美しい国日本。素晴らしい国日本。この国に生まれてよかった。

 10年ほど前、転勤族の小生もようやく郷里に落ち着きました。時代とともに周囲の様子が少しずつ変化していく中で、故郷の山や川は昔の姿をそのままとどめています。「わが故郷は、日の光蝉の小河にうはぬるみ…」 薄田泣菫の故郷という詩ではありませんが、本当に心落ち着くふるさとです。なんと有難いことかと思っています。

 しかし、この地域にも昔々、川が氾濫して多くの人々が亡くなり、田畑は荒れ果ててしまう大惨事があったやに聞いています。今では、大きな災害もなく緑豊かな美しい田園風景が広がっていますが、自然界の恐ろしさは身近にもあることを教えてくれています。

 東北地方の大震災は想像を絶するものがあり、今もなお復旧の目途さえ立っていない様子、心が痛みます。しかし、すばらしい大和魂。被災地の方々に少しでも支援できればと、あちこちから温かい義捐の心が送られています。何事もないことを当たり前のように思ってきた己の思い上がりの心を反省しながら、被災地の一日も早い復興を蔭ながらお祈りしています。

相続あれこれ Ⅰ

東日本大震災により被災された皆さま及びその影響を受けられた皆さまに心よりお見舞い申し上げます。一日も早いご復興を心よりお祈り申し上げます。


 今年の夏も暑さが厳しくお年寄りの方には大変だったと思います。

 全国の死亡者数は昭和50年が702275人、平成21年には1141865人(厚生労働省人口動態統計)と、実に1.6倍にもなっています。

 両親や配偶者が亡くなると、相続のことでお尋ねに見える方がいます。その時は先ず、税金が掛かるか掛からないか考えましょう、と答えるようにしています。掛からなければそのまま放置していても差し支えありませんが、相続税の掛かる場合は10ヶ月後が申告期限となっており、急いで関係書類等を揃える必要があるからです。

 相続税の申告には、死亡した時の全ての財産(非課税財産を除く)や債務・葬式費用等が関係してきます。先ず遺産の正確な評価が大切です。相続税の計算に当たっては色々な特例があり、税金が安くなったりすることがあります。

 相続が発生したら早めに(1ヶ月以内)相談しましょう。そして、相続税の申告は相続に精通し信頼できる税理士等に依頼することが肝要かと思います。

(次回へ続く)

相続あれこれ Ⅱ

 パートⅠで相続税が掛からない場合は、そのまま放置しても差し支えないと書きましたが、それは税務署に対してのこと、遺産は早く分けた方が良いと思います。預貯金等を放置する人は皆無と思われますが、家や土地などをそのままにしておくと先々大変なことになる場合があります。

 実際にあった話ですが、ある方のお父さんが亡くなり財産を調べてみたところ、所有者が百人以上の土地がありました。本人が住んでいる土地ですので是非とも自分の名義にしたいと相談を受けましたが、未だそのままになっているケースがあります。名義変更の年月日から推測すると、現在では数百人からの印鑑が必要です。理論的には可能であったとしても物理的に不可能でしょう。

 又、既に亡くなっている人の名義の財産が原因で相続争いになったケースもあります。二代前の名義や他人名義になっている土地が意外とあるものです。

何か事情があり、延び延びになった例ですが、できれば不動産の名義変更だけは早くされることをお勧めします。

(次回へ続く)

相続あれこれ Ⅲ

 親というものは、円満な相続が行われてそれぞれが仲良くし、家庭を大切にして幸せに暮らしてくれることを願うものです。そのために自分の思いを遺言書に託す方もおられるようです。 

 遺言には代表的なものとして、①公正証書遺言②自筆証書遺言③秘密証書遺言の三方式があります。その中でも「公正証書遺言」方式がよく行われているようです。費用はかかりますが、公証人が原本を保管していますので検認の必要がなく安心して執行できます。 一方「自筆証書遺言」や「秘密証書遺言」は遺言書としての要件を満たしているかどうか家庭裁判所の検認が必要です。検認を受けることなく封を切ると無効になりますので気をつけましょう。 せっかくの遺言書も要件を満たしていなければ単なる紙切れと同じですので、作成の仕方や注意する事項については、専門家等に相談されることをお勧めします。

(次回へ続く)

相続あれこれ Ⅳ

 円満な遺産分割と子孫の繁栄を願って託した遺言書も万全ではないようです。一部の人かも知れませんが、人間には「欲」という毒があるような気がします。昔のことで記憶が定かではありませんが、次のようなことを聞いたことがあります。

 某資産家のこと、三世代夫婦が同じ敷地でごく平凡に暮らしていました。そのうちに爺さんが亡くなりました。しかし、幸か不幸か爺さんの遺言書が発見されたのです。普通であれば波風立たずに四十九日の法要を済ませ、初盆を迎えるのですが、親子で喧嘩が始まったそうです。

 後で分かったことですが、その遺言書には孫にも財産の一部をやる(遺贈)ことが書かれていたそうです。親父は子供に財産は絶対やらない、子供は遺言書どおりにくれと言い合って骨肉の争いになったとか。実の親子でありながら何と哀れなことでしょう。その後どうなったか知る由もありませんが、この家の行く末が案じられます。

 中津城に在城したこともある細川家。細川忠利公の時に熊本城入城。それ以来240年間も細川家は肥後の太守としてつつがなく続きました。何故でしょう。その訳を殿様に聞きたいものです。

 時代が変わったといえばそれまでですが、最近は相続争いなども珍しくなくなったような気がします。目に見える物や金などを残すことは、それはそれで素晴らしいとは思いますが、それが活かされる何か大切なものを残していないような気がします。もったいない。

(次回へ続く)

相続あれこれ Ⅴ

 相続の「相」とは木と目を合わせた字。地上で一番目立つものは木。向かい合うことから、「互いに」とか「助ける」の意味。又、「続」とは糸も売もいつまでもくねくねと続くこと。相続とは切れることなく綿々と続くもののようです。財産があることによって、相続が争族にならないように有りたいものです。

 財産に纏わるさまざまな心の機微を見るにつけ、思いますことは、人間の主体は「物」ではなく「心」ではないかと。例えば、豊臣秀吉が異常なまでに秀頼の行く末を思い、大阪城の蔵に溢れるほど蓄えた金銀財宝は、夏の陣で城と共に消失してしまいました。一方、毛利元就の三本の矢の教訓はあまりにも有名な話しです。

 相続を考える時に、先ず念頭におくことは、相続人(子供等)の器づくりだと思います。形ある財産の蓄積は、それはそれで大変重要なことです。しかし、それを受ける器が小さいと持ち堪えられません。

 大きな器であれば、何があっても安心です。徳のある人と言いましょうか、世の中のお役に立つ人間であれば、相続争いなどは起こさないでしょう。しかも承継した大切な財産を活かすことができるのです。そして、その家は末永く栄えることでしょう。

 子や孫へ残すものは「徳の貯金」ではないかと思います。形あるものは壊れ無くなります。しかし、目には見えないこの「徳の貯金」は、子孫にとっていつまでも力になってくれる大きな大きな財産のような気がします。

(相続あれこれ 終わり)

胸中温気

会社では、社訓とか社是をよく見かけます。一つだけポツンと掛けているところもあれば、部屋中にいっぱい張っている会社もあるようで、並々ならぬ社長の思いが感じられるものです。足腰を強くし、より大きくと願うのは経営者の常でありましょう。

 しかし、巷では会社運営がうまくゆかず、悔やむ社長が多々おられるようです。せっかくのすばらしい社訓があるにもかかわらず、社長の思いどおりにならないのは何故でしょう。浅学非才の小生には分かるすべもありませんが、或る方から「胸中温気(きょうちゅううんき)」という言葉を教えて頂きました。すばらしい事も一旦紙にしてしまうと、例えば、水が凍ったようなもので、世の中の役に立たないようになる。しかし、それを胸中の温気をもってよく解かし、もとの水にして用いれば、役に立つのだとか。

 時代を越えて、人も企業も成功する道は、誠意とそれを達成する行為、実行しかないとの由。因みにこれは二宮尊徳の教えだそうです。教えを説くだけで自ら行動しない学者は、「氷」で役に立たないとも明言しています。尊徳の含畜ある教えに感銘した次第です。小生の応接室にも、TKCの理念である「自利利他」が静かに掛けられています。

雑感

 宇佐平野もあたり一面黄色く色づいてきました。農家にとっては麦の収穫時季です。やがて麦刈りがはじまり、田植えの準備にかかります。

 古稀の年齢になりますと、幼少の頃が懐かしく思い出されるものです。コンバインのない時代、朝5時ごろには起こされてカマを持ち田んぼへ、夕方仕事を終えて家に帰る頃には、辺りはすっかり暗くなっており、北斗七星がキラキラと輝き、天の川もきれいでした。農作業で疲れた体もこの星空を眺めていると、心が癒やされたものです。

 夏の天の川と冬の天の川では、形が違うことを知っている方は少ないのではないでしょうか。もう空を仰いでも天の川を見ることは出来なくなりました。

 また、近くには向こう岸まで50mほどの川があります。岸には竹や雑木等が緑豊かに生え、南の方に目をやると、丸い形をした石山(539m)が泰然と構えています。そして、その手前に見える白い橋と緑の川のコントラストがいかにも素晴らしい。早朝、東から大きな太陽が輝きながら昇り始めると、川面にも美しく映えて、その光景はこの世の物とも思えないくらいの感動を覚えます。子供の頃は、水泳ぎや魚釣り等をしてよく遊びました。しかも、目を開けて泳いでいたのです。しかし、今では水泳は禁止との由、すっかり汚れてしまいました。

 昔とはかなり変わってきたふる里、さらにこれからも変わっていくであろう我がふる里、できるものならば人々が幸せに喜び溢れ、そして美しいふる里に変わって欲しいものです。そのことを願いながら、子供の頃から育んで頂いた山、川、畑や田んぼ、そして太陽等大自然界に感謝させて頂く心になるのは年歳のせいでしょうか。

友遠方より来る、また楽しからずや

 先日、長いお付き合いのある方が初めて我が家へ来られました。以前、私が宮崎県の某税務署に勤務していた当時の某市の税務課長です。80歳を超えてもなおお元気で矍鑠としています。久しぶりに懐かしく楽しいひと時を過ごすことができました。

 文章を書くことが好きなこの方は、昔あったいろいろな出来事等を書き残したり、暇をみては史跡の散策など悠々自適の人生を送っておられるそうです。一冊の本を頂きました。本人のご了解を頂いたので、その本の中から「私の子ども時代」というところを原文のままご紹介させていただきます。


私の子ども時代 Ⅰ

私の子ども時代と現在は、衣食住すべて様変わりしており、今の子どもたちに話して聞かせてもびっくりすることがしばしばあります。思いついたことを列記してみました。

◎ 勉 強

ほとんどの家庭が、机を共同で交代して使っていた。子供がたくさんいる家は、食台やみかん箱のあき箱を利用していた。

(次回へ続く)

私の子ども時代 Ⅱ

◎ 電 気

 屋内配線から電球まで全て電気会社のもので、コンセントを自分で取り付けることも、二股ソケットでラジオを聴くことも許可なしにはできなかった。

 ほとんどの家が定額制で、電球は20燭50燭等明るさごとに数種類あり、電球が切れると旧町村ごとにあった電業所で無料で交換していた。無許可で電気を使用すると、ヒューズ(ブレーカー)が切れた。停電もたびたびあり、小皿に種油を入れて、木綿糸で作ったじみを浸し火を灯した。

 各家庭が電気を使い始めると、電圧が低くなり明りが薄暗くなったり、もとに戻ったりしていた。

 (注)電球のことを「電気ほや」といっていた。「ほや」とはランプのガラスの部分をいう。燭とは明るさを示す単位で、現在のワットは消費電力を示す。


 ◎ 手 伝 い

学校から帰ると、弟妹の子守、風呂当番、掃除、家畜の給餌などそれぞれ役割があり、農繁期になると農作業の手伝いをさせられた。

(次回へ続く)

私の子ども時代 Ⅲ

◎ 調 度 品

 食器棚は水屋と言い、食料品の保存は、今は冷蔵庫であるが、はいらず(蠅帖)と言い、蠅やあまめの這入るのを防ぎ、通風を良くして腐敗防止するため編戸であった。日常使う茶碗等はへごで編んだ茶わんめご。帰りの遅い人の膳は飯台に置き、卓上用蠅帳(小さい枕蚊帳)がかぶせてあった。


◎ 着 物

 小学校入学前の子供はほとんど着物(和服)で、帯をするところにせきね(身長が伸びると解いてなくなる)があり、これを着物のポケットと言って目玉を入れていた。

 着物のつくりかえは我が家でしていたので、解いて洗濯し「水のり」に浸し、張り板に張り付け、又は長い方の両端を紐で引っ張り、布幅の両端には竹ひごの両端に針がついている張簸でピンと張り干していた。

 洋服など被れるとふせ(布をあて縫う)をして着た。縁側で日向ぼっこで裁縫をされていたが、最近見たことがない。

 もちろん着物や布団も我が家で作っていた。布団は薄い綿を真綿でつないでいた。

(次回へ続く)

私の子ども時代 Ⅳ

◎ お 風 呂

 風呂と便所とお釜様(味噌、醤油を作るとき大豆や麦を蒸す大きな釜)は別棟で釜屋と言っていた。いずれも天井はなく風呂の壁は三方張りで、前方の出入りは戸がなく、焚口の前は正面から風が吹き込まないよう腰壁があった。したがって、着物の脱ぎ着は風に吹きさらしであった。

 隣近所が交代で風呂を沸かし、お互いに貰い湯をしていた。


◎ 洗 濯

 洗濯たらいに着物を浸し、洗濯板でごしごしもみ、石鹸は小川ですすぎ、物干し竿に一枚づつ袖を通し干していたので、物干し竿が何本もあった。たらいと物干し竿は男用と女用に分けられていた。

 ついでに、洗面器は髪だれ(たらい)といい、木製で三脚であった。女子の髪は洗剤がなく、樫油の搾りかすや豆腐の搾り湯で洗っていた。


(次回へ続く)

私の子ども時代 Ⅴ

◎ 農作業の奉仕

 小学校高学年になると、出征兵士の家庭の田植えや稲刈りに動員の名において加勢に行った。

 食糧増産のため水田の害虫駆除(カメムシ捕殺)や麦踏み(踏むことにより分けつする)に動員された。学校から直接水田や麦畑に行き踏んだ。


◎ 田植え等

 戦時中、若い男子は徴兵され馬の使い手がいないため、隣保班単位により共同で田植えをしていた。害虫駆除も同様であった。この害虫駆除には生徒も動員された。

 稲刈りは天候に左右されるので個人で行い、早く済んだ人は、遅れている家の加勢をした。


(次回へ続く)

私の子ども時代 Ⅵ

◎ 農家の担い手の食事

 農家の仕事は夜明けと同時に始まり、昼間は田畑の農作業で重労働。夜は、縄ないむしろ(穀物を干す敷物・機で織る)、米を入れる米俵やかまげ(かます)、藁草履などを作る夜なべを夜遅くまでしていた。したがって、一日三食のほか、その日の労働によっては次のような食事をした。

 ① 朝ちゃんこ

牛馬の餌となる草は、朝露のあるうちに切らないと、ばらばらになり束ねることが出来ないので、起床と同時に簡単な食事をして、田畑の畔草を切りに行き、朝食前に牛馬の飼料(青草と藁)一日分を作って家族と朝ごはんを食べる。

② 小 昼   十時の休憩には簡単な食事

③ 七つ飯   三時のおやつ

④ 夜ながり  夜の十時ごろに食事

私の子ども時代 Ⅶ

◎お金に証紙を貼って使った

 戦後、昨日まで通用していた紙幣に、証紙を貼らなければ使われなくなった。通貨単位の切り替えでなく、戦後による切り替えで、極度の用紙不足と短期間に大量の製造を行うことが出来なかったので、額面拾円以上の旧円券に新円証紙を貼付し、新円券に代用したとのことである。期間は昭和21年3月から同年10月までであった。

 当時は、五銭、拾銭、五拾銭、壱円、五円、拾円、百円、弐百円、千円券があり、弐百円券以上の紙幣には「此券引換に金貨弐百円(千円)相渡可申候」と印刷されていた。これを兌換券と呼んでいた。百円以下は不換紙幣と言った。

 円未満の通貨は昭和28年12月をもって使用禁止になった。子供の小遣い銭は一銭か二銭が相場であった。

私の子ども時代 Ⅷ

◎結婚式

 結婚はほとんどが見合いか、親が決めた人で、挙式も自宅で行われた。新郎が新婦宅まで迎えに行き、簡単な宴があり近所の人々がご両人の見物方々お見送りに来る。乗り物はほとんどが馬車(昭和二〇年代後半ごろからバスに変わった)であった。挙式には迎えに来た人の三倍程度が出席し、新郎側はもっぱら接待役として参加した。

 宴たけなわになると、地区内の青年が手ぬぐいでほほ冠し、地蔵様をもってご両人の前に据えお祝いを述べる。そのお礼にご馳走と焼酎をたくさん頂いて公民館に移動し、青年一同喜びを分かち合う。

 「ごぜむけ」があると聞くと、近所の方はもちろん、よその青年も嫁さんはもとより嫁入り道具の見物に訪れていた。見聞が終わると荷馬車が出立つ、到着するとご馳走が出て日当が支給された。

 翌日は、親類の方々が、花嫁の持参した諸道具や衣装の見物も行われ、午後は新郎の親類や友人等の披露宴があった。

 いつのころまであったのか定かでないが、大正時代には、新婦ともっとも親しかった友人が、そば嫁女としてお供していた。

私の子ども時代 Ⅸ

◎遊び

 友達の家に親戚の子どもが来ると、一緒に遊んでいたので、近所の友達の親戚まで覚えている。

 男は、ラムネ(目玉)、パッチン、カネミナ(金蜷)、鶏のけんか(闘鶏)、戦争ごっこ、木の実(なんでも熟した実)採り、めじろ、すずめ、魚などを捕って遊んだ。

 魚は竿釣りで、ふな、はぜ、えび、うなぎなどが釣れた。このほか田んぼの小川では、たぶをすけ(待ち網)川上から追い込みふなやえびが取れた。

 田植え上がりの六月末になると、えびが産卵のため川下りをするので、初田川につかり手探りで捕まえた。稲刈りが終わる十一月になると稚えびが福島川を上るので、河原の浅瀬に金網を張った箱で待ち受けて捕った。

 うなぎは、土手の穴や橋台の石積の穴に、小さい竹の先に釣り糸をつけて差込み釣る。また、竹んぼっぷにみみずやぶくがん(脱皮した「かに」で潰すと乳状の液が出る)を餌として入れ、小さい用水路や福島川などに夕方付け、夜明けを待ちあげに行く。あゆの時期になるとあゆ引掛けなどいろいろしていた。

 女はお手玉、ゴムとび、とんぱち、ままごとなど。合同ではカルタ、トランプ、百人一首など。

私の子ども時代 X

  ◎配給生活

 戦争が激しくなるにつれ、切符がなければ何も買えなかった。米は米穀通帳、衣料品は衣料切符、正とのズック(靴)は学級に割り当てがありくじ引き、標準に満たない文数(靴の長さ)の者は常に抽選権がなく素足で寒い時期はわらぞうりであった。

 汽車の乗車券、たばこなども販売数量が決められ、並んでいても買えない人がいた。            

殿方 

ぽかぽかと陽ざしの穏やかなあす春の日、スーパーへ買い物に出かけた。支払いのためレジのところに行き待っていると、前に並んでいた婦人が「どうぞ」と声をかけてくれた。年格好は80歳前後で上品な女性。もちろん見知らぬ方。「いえ、いいですよ。どうぞ」と言葉をかえしたが、「どうぞ、殿方ですから」と、笑顔を浮かべながら再度勧めてくれたので、言葉に甘えて先に支払いをすませた。何かしら心が和み温かいものを感じた。


 殿方という言葉が心に残り、辞書を引いてみると、「男子一般をいう尊敬語。おもに、女性から男性をさしていう上品な言い方」とある。この婦人はそれを心得ているのでしょう、ごく自然な仕草であった。家庭でも主人に添い心配りのできる方に違いない。「殿方ですから」という言葉の裏には、その女性の奥深い教養と優しい謙虚さが滲み出ており、尊敬の念を覚えた。お互いに相手を思いやり、その根底に敬う心と和の心があれば、この世は何事もうまくいくような気がする。殿方という言葉に出会って、北風を太陽のイソップ童話を思い出した。

夫婦 

 湯布院温泉の手前に塚原温泉がある。亡き妻と若いころ、ぜんまいや蕨を摘んで遊んだところである。そこにひなびた温泉場がある。男湯と女湯は中央で高さ3mほどの壁で仕切られその上は何もない。両方の話し声はよく聞こえる。板で囲まれた湯殿はお世辞にも綺麗とは言えないが湯につかるとぽかぽかを温まり気持ちが良い。


 久しぶりに行ってみた。男湯は小生を含めて3人。一人は80歳を少し超えているみたい。男湯は誰もしゃべることなく沈黙が続く。女湯は一人らしく話し声は聞こえない。少しして女湯に一人入ってきたようだ。挨拶に始まり二人は次々にどこから来たかと話し始めた。男湯とは対照的に話は弾む。女はよくしゃべるとは聞いていたが、次から次に話のキャッチボールが続くのには感心した。

 女湯の声が聞こえなくなった時、男湯の老人が「お~い」と言うと、女湯から「は~い」という返事が返ってきた。いつも聞きなれた声と言葉に迷うことはない。二人は長年連れ添った夫婦のようだ。そろそろ上がろうかという会話が交わされた。久しぶりに見た微笑ましい光景である。昔の自分達にもこんな会話があったなあと苦笑した。何かと離婚の話をよく耳にする昨今、この二人の辞書には「離婚」という言葉はないようだ。いつまでも仲の良い夫婦であって欲しいと心で拍手を送りながら塚原温泉を後にした。

10月  紅葉(もみじ)

事務所概要

事務所名
庄部秀彦税理士事務所
所長名
庄部 秀彦
所在地

大分県宇佐市大字四日市1583番地の1

宇佐産業ビル202号室

電話番号
0978-32-1163
FAX番号
0978-32-1705
業務内容

・法人税・所得税・消費税の申告書、各種届出書の作成

・譲渡、贈与、相続の事前対策、申告書の作成

・税務調査の立会い

・その他税務判断に関する相談

・試算表、経営分析表の作成

・総勘定元帳の記帳代行

・決算書の作成

・会計処理に関する相談

・経営計画、資金繰り計画の相談、指導

・各種書類の作成


庄部秀彦税理士事務所は

TKC全国会会員です

TKC全国会は、租税正義の実現をめざし関与先企業の永続的繁栄に奉仕するわが国最大級の職業会計人集団です。

南九州税理士会所属